『小さい頃は、神様がいて』は一見平和そうな家族の崩壊をクライマックスにもってきているのではおそらくない。大型台風に家を流されるドラマではなく、災害から身を守る準備をする物語、なのではないだろうか。このままあんが、20年間、「母」としての役割ばかりを背負わされたことにならないように。

『小さい頃は、神様がいて』より©フジテレビ
「母」といえば、同じマンションに住む永島慎一(草刈正雄)とさとこ(阿川佐和子)のシニア夫婦は、夫婦というより年を取った母と息子のように見える。ふたりはそれで幸せそうに見えるが、しっかりものの母と甘えん坊の息子のような雰囲気にはなんだか違和感がある。こういう夫婦は現実にもちょいちょい見かける。男性は好きなことをのびのびやっていて、傍らにいる妻は同伴のお母さんに見えてしまう。そんなケースに見覚えはないだろうか。
そういう意味では、あんと渉は、まだ対等に見える。少なくとも渉はあんを「母」のようには扱っていないと感じられる。友達夫婦っぽいけれど、お母さんよりはいいかなと思う。
ところで。男性が個人ではなく「父」になってしまうという悩みはあまり聞かない(悩んでいる人がいたらすみません。「財布」になってしまうという悩みはあるかも)。その一方で女性はなぜか個人でなく「妻」や「母」という役割に押し込められがちであるという問題を『小さい頃は、神様がいて』ではどうやって解決するだろうか。

同性カップルの奈央(小野花梨)と志保(石井杏奈)。『小さい頃は、神様がいて』より©フジテレビ
その点で興味深いのは、もう一組のマンションの住人が女性の同性カップルの樋口奈央(小野花梨)と高村志保(石井杏奈)であることだ。彼女たちは互いを互いの「母」に置き換えることはなさそうだ。
「母」と息子みたいになってしまったシニア夫婦、「母」としてだけ見られることを拒む主人公夫婦、「母」にならない同性カップル。3つの家族の前に、新たに父母を亡くした幼い子供(永島夫妻の孫)が現れる。さとこは「私の仕事とはね、凛(孫娘)をあんまり早く大人にしないこと」と決意を語る。幼い孫が順のように何もかも先回りしていい子になってしまうことなく、もっと自由でいられるようにと考えるさとこはやっぱり「母」の役割を選択しているように思う。