アナウンサーになるために54局にエントリーシートを送る

田村さんが心血を注いだエントリーシートの数々
――よろしければ就活時代の話、詳しくお聞かせいただいてもよろしいですか。
田村:私はどこのテレビ局とか関係なく、とにかくアナウンサーになりたかったんです。実際に、北海道から沖縄まで全国54の放送局にエントリーシートを出しましたから。RCCに内定をもらったのでほかの放送局は辞退しましたが、内定が出るまでエントリーシートは出し続けていました。
――アナウンサー試験ならではの苦労などはありましたか?

田村さんを天職へと導いた「奇跡の1枚」
田村:アナウンサー試験のエントリーシートは特殊で、特にキー局は、志望動機など文章を記入する欄がとても小さく、メインは4枚の写真(全身写真2枚、顔写真2枚)なんです。やっぱり前提として、容姿が重要なのだと思いました。
はじめは、エントリーシートすら通らず、「このままではまずい!」と、まずは写真で自分をよりよく見せる努力から始まりました。光の角度や顔の向き、髪型、服装まで研究して、数千枚ほど撮影した中から「奇跡の1枚」を発見。そこからエントリーシートでは落ちなくなりました。
――凄まじい努力ですね!
田村:それでも東京だと2次試験のカメラテストで落ちていました。でも、次の大阪や名古屋の局から情勢がだんだんと変わってきて、いいところまで進めるようになったんです。名古屋の放送局は最終面接まで残ったのですが、結局ダメで、号泣しながら名古屋の街を歩いた記憶があります。
――広島のRCCの内定をもらった瞬間はどのような心境でしたか?
田村:もうめっちゃ嬉しかったですよ。実家で内定の報告をもらったときは父親と泣きながら抱き合いましたよ! フリーでアナウンサーをやるという選択肢はもともと私にはなくて、局アナに憧れがあり、会社を背負ってアナウンサーという仕事をやるのがかっこいいなと感じていたんです。だから放送局全部落ちていたら、私どうしていたんだろうなと思いますよ。

四六時中、アナウンサー試験の対策を続けていた
――まさしくガッツですね! アナウンサーになるまでの過程をお聞きしても田村さんの反骨心を強く感じます。
田村:反骨心はありましたよ。アナウンサーってモデルやアイドルをされていた人たちも受験している世界なので、「決着がついている戦い」に私は挑んでしまったのかもしれないと思ったりもしました。だから次々と落ちると途中で諦めそうにもなるんですけど、アナウンススクールの先生に「諦めるな。奇跡を待つより捨て身の努力だ」と激励されたんです。
そこから美人の10倍は努力しようという反骨精神が芽生えました。アナウンススクールも毎週土日は朝10時から終電まで入り浸り、発声や原稿読みなどアナウンスの練習をやり続けました。
――努力をし続けるのは大変ですし、持続しにくいので、その姿勢は素晴らしいです。
田村:生まれ持って華のある人たちに対抗するには、面接の受け答えなどが重要になるので、めちゃくちゃ面接練習はやりましたよ。「なぜアナウンサーになりたいのですか?」「やってみたい仕事は?」など面接で聞かれそうな定番な質問を単語帳に書いて、完璧な回答になるまで何度も練り直しました。それを丸暗記して、でも事前に考えてきたと思われないように「今、考えて答えている」という演技の練習までやりましたね。
――面接では予想外の質問などあったりするんですか?
田村:ありますね、たとえば「朝ごはん、なにを食べてきた」とか……。そういった質問も、どうすれば面接官と距離を縮められる回答ができるのかをあとから考えて、単語帳に書き足していきました。そういうことをやっていくとRCCを受ける頃には予想外の質問は1個もありませんでした。
入社後、上司になぜ内定したのか聞くと、面接の受け答えがちゃんとしていたのと、筆記試験の点数が過去一番くらい異常によかったといわれました(笑)。ずっと勉強してきたことが生かされたんだなと感じましたね。
――田村さんには目標に向かってひたすら辛抱強く努力していくという「努力の才能」があるんだなと感じました。
田村:もしかしたら私にとっての唯一、その才能だけあったのかなと思います。努力だけは誰にも負けないつもりです。
<取材・文/ジャスト日本>