だが、当のハリカは、彦星に何もしてあげられない自分に無力感を感じていた。がんの重粒子線治療には、莫大なお金がかかる。それどころか、ハリカは川を隔てた病院へ行き、彦星に会うことすらできない。ログの残らないチャットアプリで話をするだけの関係だ。
ある日、呼吸不全を起こした彦星は、集中治療室に入るが、彼の家族は、一年前に予約していたレストランに彼を置いて出かけてしまう。しかしこのドラマは、彼らを“愛情の希薄な冷たい家族”といったステレオタイプには描かない。
ハリカ「私と一緒なんだよね。私も、彦星くんが苦しんでるときに、笑ってた。熱出してるときにご飯食べてた。(中略)何もしてあげられないのは一緒だから。私も、レストランでご飯食べてる人と同じ。ここにいてもいなくても同じ。全然、大事にしてない」
苦しんでいる人がいるのに、自分だけ笑ったり、ご飯を食べたりしていることの罪悪感や、そうすることしかできない無力感には、どこか身に覚えがないだろうか。2011年に東日本大震災が起きたとき、「自分はこんなことをしていていいのだろうか」と忸怩たる思いをした人は少なくないだろう。大きな災害や事故で奇跡的に生還した人たちが、自分だけ生き残ったことに後ろめたさを抱えてしまうといった話も、しばしば耳にする。
だが、「ここにいてもしょうがない」と言うハリカに、亜乃音はこう声をかけるのだ。
亜乃音「何もできなくていいの。その人を思うだけでいいの。その人を思いながら、ここにいなさい」
たとえそばにいられなくても、役に立たなくても、そこにいない人のことを祈りながら、いつも通り笑ったり、ご飯を食べたりする。そんな目に見えない思いのなかで「ここにいる」ことが、きっと私たちにできる本分だ。るい子にだけ見える少女・アオバのように、目に見えるものだけが意味や価値を持つのではない。現に、ハリカの語るささいな冒険譚のおかげで、失意の闘病生活を送っていた彦星は、「明日がくること」を望むようになったではないか。
「生きなくたっていいじゃない、暮らせば。暮らしましょうよ」という亜乃音のセリフからは、罪悪感や無力感を抱きながら生きる人たちへの、優しい赦しと肯定のエールを感じた。