当日、スーツケースを引きながら家を出たときの気持ちを、エリカさんは昨日のことのように思い出す。もう帰ってこないかもしれない。夫に心の中で手を合わせた。

「成田で彼と待ち合わせていました。彼の姿が見えてそちらに足早に向かっていったとき、横からすっと現れたのが、会社に行ったはずの夫。
『行くな』『やり直そう』と夫が叫んだんです。目の前の夫の向こうに彼が見える。夫を突き飛ばして彼のもとへ行くこともできました。そうしようかと夫を見たとき、夫の目から大粒の涙がぼろぼろこぼれ落ちているのが見えて……」
ちょっと待ってと彼女は深呼吸した。ここで情にほだされたら後悔する、と彼女は急に冷静になった。自分はどうしたいのか、誰を愛しているのか、誰と一緒にいたいのか。
「『
子どもなんてどうでもいいよ。オレはエリカが好きなんだ、エリカと一緒に生きていきたいんだ』と彼は大声で言いました。あ、私が聞きたかったのはこの言葉なんだと思った。スーツケースを放り出して夫に抱きつきました。ふと見ると、彼が搭乗口のほうに向かってひとりで歩いていくところだった。申し訳ない気持ちはあったけど、私は夫に抱きついたままだった。離れたくなかったんです」
夫は妻が駆け落ちのように海外へ行くことを悟ったのか、あるいは彼女の携帯電話でも見たのか。それについてエリカさんは夫に尋ねてはいない。夫も何も言わない。
ただ、それ以来、夫婦関係は激変した。子犬を飼ってふたりでめんどうを見ながら、時間さえあれば一緒にいる。子どものいる友だち夫婦と一緒に出かけることもある。
「子どものいない夫婦だからこそ、友人の子どもたちの逃げ場になってあげられる。自分たちの時間を楽しみながら一生懸命働いて、いつか困っている子どもたちのために何かできればいいねと話し合っています」
今は、お互いの気持ちを言葉にすることを躊躇しなくなった。何でも話せるようになったのだ。遠慮をせずに本心を吐露する重要性を、エリカさんと夫は心の底から感じているのだろう。
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夫婦再生物語―
<文/亀山早苗>
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