「ペットと飼い主」の話であるが私は動物を飼っていない
「きみにかわれるまえに」は帯に書いてあるとおり「ペットと飼い主」の話である。
だが私は動物を飼っていない。
そう言うと、飼ってないのにペットの話を描くのかとお叱りを受けることもあるが、そんなことを言ったら、荒木先生は人を殺したことなければいけないし、高橋先生は犬でなければいけない。
確かにこの両人なら「もしかしたら」という気もするが、それは大先生だからである。
実際には「今は飼っていない」で、遥か昔 猫を飼っていたことがある。
しかし、その猫とあまりに辛い別れ方をしてしまったため、もう動物は飼うまいと現時点では決めている。

(画像:カレー沢薫「きみにかわれるまえに」日本文芸社より)
そもそも動物というのはそう安易に飼って良いものではない。
過去の経験がなくとも、経済的にも生活環境的にも責任を持って飼えるかというと「自信がない」となってしまうし、自身がないならば飼うべきでないのが動物である。
何より、自分の手で不幸なおキャット様を作りだすことが「怖い」のだ。
よって、実物のおキャット様を見るとウエットティッシュみたいな気持ちになってしまい、猫カフェとかに行っても、自分の言動がおキャット様に害を与えるのではと考えると、触ることすら憚られ「棒立ち」になってしまうこともしばしばである。
「猫見せろよ」というカツアゲを受けても快く猫を見せてくれる「飼い主」という存在
よって、私は宗派を「おキャット様偶像崇拝過激派」に改宗し、ネットでおキャット様動画を見たり、ツイッターでおキャット飼いを「猫持ってんだろジャンプしてみろ」と恫喝(どうかつ)して猫画像をせしめて崇めるという宗教活動を行っている。
つまり遠くにいる猫を愛でるだけという立場だが、飼っている人はそれだけではない、おペット様が健やかに過ごせるよう力を尽くさなければいけないし、時には困ったこともあるだろう、何よりいつかはお別れの悲しみを味わわなければならない。
そのような重責を背負いながら、カワイイと言うだけの奴に「猫見せろよ」というカツアゲを受けても快く猫を見せてくれる「飼い主」という存在を私はリスペクトしている。
一番リスペクトしているのは、勝手に人間に写真を撮られてネットに上げられても訴訟を起こさないでくださるおキャット様だが、その次ぐらいには尊敬している。
それに、責任は重いし、別れの悲しみもあるが、やはりカワイイと言うだけで飼っていない人間が得られない物を、動物を飼った人間は得ていると思う。
私が持っている「動物の命は自分には重すぎるから飼わない」という決断も、昔飼った猫が与えてくれたものである。

(画像:カレー沢薫「きみにかわれるまえに」日本文芸社より)
いるだけで愚かな人間に学びを与えるお動物様はやはり尊い
「きみにかわれるまえに」はそんな動物と動物を飼うことによって得たり失ったりする人間の話である。
動物はあくまで動物であり、人間が勝手に無くしたり見つけたりしているだけなのだが、いるだけで愚かな人間に学びを与えるお動物様はやはり尊く、それに仕えることが出来る人間もやはり特権階級と言えるだろう。
ちなみに私のように、動物に対する気持ちがベチャベチャになりすぎて飼えない奴の話も出てくるので、飼っている人や飼おうと思っている人だけでなく、飼わないという判断をしている人にも買ってほしい。
つまり全員に買って欲しい。
作者に自著の解説をさせるとどんな本でもこの結論に達するだけなので、あまりさせない方が良いと思う。
【カレー沢薫さんによる30代からの終活マンガ『ひとりでしにたい』自作解説はこちら】⇒
孤独死は、死ぬ予定があるひと全員が関係ある話/カレー沢薫・自作解説
<文/カレー沢薫>
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