そんな彼女が、私を産んだ。今思えば彼女は、自分のできなかったすべてを、私に投影したかったのだと思う。まだ幼かった私の長い髪にパーマをかけさせ、育ちの良いお嬢様の真似事をさせた。金銭的余裕なんてないくせに、昔の写真に写る私は、いつもブランド物の洋服を着て、にっこりと微笑んでいる。
母親が本格的に壊れたのは、私が小学4年生になった頃、長くのばした髪の毛を、クローゼットに隠れて切り落とした、あの日が境だったと思う。
無造作に切り落とされたショートヘアで自分を睨みつける娘にむかって、彼女は「不細工」とひとこと言ったあと、そこから、私に関する一切の関心を無くした。暴言が始まったのも、その後だった。
私と母の確執は長く長く続き、最終的に連絡を絶ったのを最後に、約3年間、私は「母親」という存在を忌み嫌い続けていた。「あいつのせいで」という思いが私の心の中に居座って、どうやって処理して良いのかも、分からないままだったのだ。
そんな母から連絡が来たのは、つい半年前のことだった。
「虐待してごめんな。やけどもうやりなおせへんし、母さん、どうしたらいい?」
私のもとに、そんな一通のテキストが届いたのだ。私は無表情にそのテキストを読んだ後、自分の心にあった「あいつのせいで」が、スッとほどけていくのが分かった。それは、「謝罪を受け入れたから」、ではない。恨みや憎しみが、同情に変わったのだ。
母は、可哀想な人だった。美人しか幸せになれない世界に生まれたと思い込み、自分の容姿を好きになれず、そしてその考えを正してくれる人に、出会えなかったのだろうと思う。おそらく、時代もあったのかもしれない。
そんな可哀想な彼女が、自分なりの「幸せになれる方法」を、娘に適用しようとした。その結果が、この有様だったのだ。
「不細工は幸せになれない。せめて自分の娘だけは美しく保って、幸せになれるように導こう」
そんなふうに考えて産んだ娘の容姿が自分にそっくりで、せめてもと美しく伸ばさせた髪の毛を切り落とされた日には、心が折れてしまって当然だったのかもしれない。
私はまだ、母親の呪いから、解放されていない。母親の言葉が作り出した醜い私は、今もまだ、私の心の奥で息をして、時々、叫び声をあげる。
だからこそ、いくら同情を経ても、母親を許そうだとか、愛を抱こうだとか、そんなことは思わない。幼い頃から形成されたこの歪んだ価値観は、今更抱きしめられたって修正されるものでもないわけで、一言で言えば、「もう遅い」のである。