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宇垣美里「忘れられたら楽なのに、忘れられないほど愛おしい」/映画『林檎とポラロイド』

 元TBSアナウンサーの宇垣美里さん。大のアニメ好きで知られていますが、映画愛が深い一面も。
宇垣美里さん

撮影/中村和孝

 そんな宇垣さんが映画『林檎とポラロイド』についての思いを綴ります。 林檎とポラロイド●作品あらすじ:「お名前は?」「覚えていません」──。バスの中で目覚めた男は、記憶を失っており、覚えているのはリンゴが好きなことだけ。 治療のための回復プログラム“新しい自分”に彼は参加することに。毎日リンゴを食べ、送られてくるカセットテープに吹き込まれた様々なミッションをこなしていきます。自転車に乗る、ホラー映画を見る、バーで女性を誘う…──そして新たな経験をポラロイド写真に記録する。  毎日のミッションをこなし「新しい日常」にも慣れてきた頃、彼は、以前住んでいた番地をふと口にします。過去を徐々に紐解かれていきますが…。  ヴェネチア映画祭で上映され、審査員長のケイト・ブランシェットが絶賛し、製作総指揮に名を連ねた本作を宇垣さんはどのように見たのでしょうか?(以下、宇垣美里さんの寄稿です)

記憶を失う奇病が広がる世界

映画『林檎とポラロイド』

『林檎とポラロイド』より

 忘れられたらずっとずっと楽なのに。そう願ったことが誰しも一度はあるだろう。  愛した人と道を違えた日、大切な人との永遠の別れ。この痛みを抱えて生きていくくらいなら、いっそ。でもそういうものこそ忘れられやしない。生活のあちこちにその人の名残が染みついて、目を閉じれば簡単にあの頃の景色が浮かんでやるせない。仕方がないから、忘れてなんかいないくせに、忘れたふりして生きていこう。そんなふうに思った経験が。  突然記憶を失う奇病が蔓延する世界で、主人公の男もまた自らの名を忘れたと申告する。運ばれた病院でリハビリに励むものの、近親者が迎えに来る気配はなく、記憶喪失の患者向けの特別プログラムに参加することになる。

瞳から、だだ漏れなほどにあふれる感情

 記憶を取り戻すのではなく、新しい経験と記憶を重ねることで新しい人生を築き直すというそのプログラムに沿って、男はカセットテープに吹き込まれたミッションを日々こなし、それをポラロイドに記録していく。「自転車に乗る」「仮装パーティで友達をつくる」「ホラー映画を見る」。奇妙な課題に懸命に取り組む男は真面目すぎて滑稽なくらい。  セリフは少ないながら、寡黙で物憂げな男のひげ面の奥にあるつぶらな瞳からは、だだ漏れなほどに感情が溢れていてかわいらしい。浮遊感のある映像で描かれる静かで独特な間のシュールな世界観はコミカルで渇いた笑いに満ちている。 林檎とポラロイド

忘れられたら楽なのに、忘れられないほど愛おしい

 淡々と課題をこなしていくうちに、徐々に見え隠れする過去のかけら。流れる音楽に自然と動きだし踊りだす体、無意識に選んだ林檎に不意に答えてしまった住所。少しずつ撒かれた違和感はラストで回収され、男が胸の奥に抱えていたものの切なさ、溢れこぼれた悲しみがぐっと迫ってくる。  忘れられたら楽なのに、忘れられないほど愛おしい。だから、その喪失も抱えてひとり、あなたのいない世界で生きていくと決めた。この痛みもいつか薄れていくけれど、せめて記憶のあるうちは。今日は、林檎を買って帰ろう。全部全部、覚えておくために。 林檎とポラロイド』 監督・脚本/クリストス・ニク 出演/アリス・セルヴェタリス、ソフィア・ゲオルゴヴァシリ 配給/ビターズ・エンド ©2020 Boo Productions and Lava Films 【他の記事を読む】⇒シリーズ「宇垣美里の沼落ちシネマ」の一覧はこちらへどうぞ <文/宇垣美里> ⇒この著者は他にこのような記事を書いています【過去記事の一覧】
宇垣美里
’91年、兵庫県生まれ。同志社大学を卒業後、’14年にTBSに入社しアナウンサーとして活躍。’19年3月に退社した後はオスカープロモーションに所属し、テレビやCM出演のほか、執筆業も行うなど幅広く活躍している。
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