「バケモン」と呼ばれるのが怖かった幼少期を想起…カンヌ受賞作にLGBTQ当事者から賛否の声
「クィア(Queer)」という言葉をご存知だろうか。LGBTQのQに当たるアイデンティティを表すとともに、LGBTQと同様、性的マイノリティ全般を指す言葉としても使われる。
最近では是枝裕和監督の『怪物』が国際的な映画祭で「クィア・パルム賞」を受賞したことが話題になった。
『怪物』は、海沿いの町の小学校で起こった体罰事件からはじまる。事件を取り巻く保護者、教師、児童の視点で少しずつ謎が解き明かされる、ミステリー作品だ。
見ている最中、困惑した。これがクィアなのか?と。
しかし物語が進み、事件の全容がつまびらかになる中、私は本作を、性的マイノリティ性に悩む当事者だけの物語とはとても思えなくなった。むしろ、当事者の周りにいる誰もが直面する、葛藤(かっとう)の物語に思えてならず、監督の「誰の心の中にでも芽生える」という言葉が妙に納得できた。
そして、子ども時代に心の中で思っていたことを唐突に思い出した。それは、「バケモノになりたくない」というものだ。
私も、自分の性についてずっと悩んできたひとりだ。
幼稚園のころから生まれた時に割り当てられた「女性」という性別に違和があり、自分を「男性」としか思えず、小学生ですでに性別適合手術やホルモン治療を夢見ていた。性自認が男性なら女性を好きになるもの、と思い込んでいた時期もあるが、現実には男性しか好きになれずそのことにも悩んできた。
90年代当時、テレビではまだ「オカマ」という言葉が使われていた。私の父はそれを観て「バケモン」と笑った。
数年前、ゲイ男性を揶揄する「保毛尾田保毛男」が復活し問題となったが、ゲイが揶揄される風景は日常的なもので、私もよくわからないまま父の隣で笑っていた。自認する性で生きる人々に憧れを持つ一方、自分が笑われるのは怖かった。
受賞に後押しされてか、公開時から絶賛の嵐だった。が、複雑な想いで受け止めた人たちもいる。中でも印象的なのは性的マイノリティ当事者の反応だ。 「LGBTQ当事者の方を向いていない」「(クィアが)物語を彩るものとして使われている」など、否定的なものが目についた。 是枝監督の「LGBTQに特化した作品ではなく、少年の内的葛藤の話と捉えた。誰の心の中にでも芽生えるのではないか」という発言に、性的マイノリティ性を「過度に普遍化する」ことへの懸念も呈された。 同賞の審査員長が「誰かの命を救う映画」と評したにもかかわらず、当事者が苦言を呈する本作。「クィア」というのならば、私も他人事ではない。自分の目で確かめることにした。
クィア映画、なのか?
笑われるのが怖かった
90年代当時、テレビではまだ「オカマ」という言葉が使われていた。私の父はそれを観て「バケモン」と笑った。
数年前、ゲイ男性を揶揄する「保毛尾田保毛男」が復活し問題となったが、ゲイが揶揄される風景は日常的なもので、私もよくわからないまま父の隣で笑っていた。自認する性で生きる人々に憧れを持つ一方、自分が笑われるのは怖かった。



