
画像:YOSHIKI PR事務局 プレスリリースより(PRTIMES)
けれども、「Hunting Soul」は曲全体のイメージにおいてX JAPANを上手に模倣しています。パクリは、あくまでも気づかれないように姑息に行うもの。オマージュは、その対象に知ってほしいから、全てを表現するものです。つまり、オマージュは隠すのではなく、手の内を見せることを前提にした態度だと言えます。それこそが、パクリとオマージュの大きな違いなのです。
具体的に見ていきましょう。
まず、ギャグ要素が随所に盛り込まれている『ダンダダン』というアニメの性質からして、「Hunting Soul」がネタ的に挿入された仕掛けの役割を果たしていることです。その楽曲自体で真剣なオリジナリティを打ち立てようとしているのではなく、アニメの作風を補強するための補助線として音楽が機能している。あくまでも主役はアニメのストーリーラインや語り口であり、音楽それ自体を目立たせようとしているのではないという点を理解する必要があります。
それを踏まえて改めて「Hunting Soul」を聴くと、サウンドやフレーズ、音楽的なイディオムの隅々に、「これはX JAPANを下敷きにしています」という明確な記号が刻まれていることがわかります。これはもう、「紅」を下敷きにしていると堂々と宣言している曲です。
「紅」があるから笑える——40年後のギャグとリスペクト

画像:株式会社WOWOW プレスリリースより(PRTIMES)
「紅」は、高校野球の応援などで多く使われるほど国民的な定番曲です。そんな大ネタならば、音楽に詳しくない人でもすぐにわかる。つまり、「Hunting Soul」は、元ネタがバレてもいい、むしろバレないと楽しみが成立しない曲なのです。
そう考えると、オリジナリティについての是非を問うこと自体がナンセンスだとわかるでしょう。『ダンダダン』、そして「Hunting Soul」の笑いは、X JAPANの「紅」なしには生まれなかったものだからです。
百歩譲って、これが“パクリ”だとしても、それでもYOSHIKIは怒るより、むしろ誇りに思っていいはずです。これは、「紅」のリリースから40年近く経った今もなお、強烈なインパクトがあるからこそ成立したオマージュであり、ギャグなのですから。
確かに、「Hunting Soul」は、当時YOSHIKIやX JAPANが放ったヒリヒリするような攻撃性とは違った表現の方法なのかもしれません。しかし、たとえそうだったとしても、時代を超え、アニメという異なるジャンルの作品にそのエッセンスは生きている。
そんなふうに生き延びる曲は、滅多にありません。