作家こだまが綴る小説『けんちゃん』の原点「けんちゃんのベストアルバム」/けんちゃんのいる世界Vol.8
障害を抱えた高校生けんちゃんと、彼と出会い振り回される人々を描いた小説『けんちゃん』。著者こだまは、かつて特別支援学校の寄宿舎に非常勤職員として勤務。たくさんの子どもたちと関わった経験を下敷きに小説を書き上げたという。そんな小説『けんちゃん』刊行を記念して、その原点とも言うべき、こだまがブログに綴っていた“けんちゃんエピソード”を公開。全8回。みんなけんちゃんを好きになる――。
この春、ベテラン職員数人が異動した。臨時職員の私は年度が変わっても仕事量や役割に変化はなく、ただ淡々と目の前の作業をこなすだけ。そう思っていたけれど、意外にも小さな変化が訪れた。「子どもに特別嫌われているわけではないが、特別好かれてもいない」位置にいた私が、繰り上げ当選のようなかたちで突如ちやほやされるようになったのだ。廊下を歩けば名前を呼ばれ、「きょう、学校でさあ」なんて前から親しかったかのように愚痴を聞かされる。「先生って結婚してんの?」と今更ながら私生活にも興味を持たれた。なんだこれ。急に来た。私の時代が来た。
突出するものはないけれど、手を抜かずに決められたことを地道にやってきた。朝の身支度に時間のかかる子には辛抱強く声を掛けながら付き合ってきた。興奮すると指導員の髪を鷲摑みする子には、「ハゲちゃうよお」と宥め、頭をぼさぼさにされながら落ち着かせてきた。そんな小さな積み重ねが報われたのかもしれない。見慣れた寄宿舎の長い廊下が急に光り輝いて見えた。
雑用の方が性に合っているが、必要とされるのも悪くない。だが心躍ったのも束の間、とても気さくで世話好きな新人の存在に気付いた子どもたちは、そちらを拠り所とするようになった。主審から「それまで」の声が掛かり、私は定位置に押し戻された。
けんちゃんとの適度な距離は変わらない。先日けんちゃんは「気持ちを落ち着かせる部屋」から顔だけをひょこっと出して、私に手招きした。彼はイヤフォンで音楽を聴いていたようだ。人差し指でシュッシュッとリズムを取りながら指揮を振っている。
「何を聴いているの?」
「しっ知りたい?」
「知りたいね」
これを聴かせたくて呼び寄せたのは明らかなのに、いつの間にかこちらがお願いするかたちになっている。じゃあ仕方ない、という感じで、けんちゃんが有線イヤフォンの片方を寄越した。イヤフォンを半分こして、頭を寄せて同じ音楽を聴く。こんな付き合いたての恋人同士みたいな真似をけんちゃんと実行するとは思わなかった。では失礼します、と耳に当てた瞬間、谷底で暴れる真冬の風のような唸り声が鼓膜を圧迫した。
どぅああああうっんんんっだだだあああんだ ああああっあんあどああだあああ~♪
「けんちゃん、これは何?」
どああどあああああ~どだああああんっどあ どだああどああんだあああんっ~♪
爆音にかき消されて声が届かない。彼は気持ちよく拍子を取っている。
「けんちゃん?」と身体を揺すって尋ねた。
「なっ何って、ぼっぼくのニューシングルさ」
ニューシングル。確かにそう言った。「どうだ」と満足げな瞳で私に感想を求めている。「もう一回歌って」と言われて、正確に歌えるものなのか。歌詞はあるのだろうか。きびきびと振る指揮が、どの節にも全く合っていない。
曲のタイトルは『山』。谷底を連想した私の耳は、あながち間違いではなかった。最後の最後に初めてギターの音がジャジャーンと鳴った。歌っている間はずっと胸に抱えていたのだろう。『山』は今年にはまだ早いかもしれない。人類が様々な曲を試し、出し尽くし、もう未知の音楽は無いね?と確認し合ったときに満を持して公表したい。そんな最先端をゆく楽曲だった。
「あっ秋には二枚目のシングルが、でっ出るから買ってね」
「どこで売ってるの?」
「セ、セブンイレブンとかだよ」
「もうタイトルは決まっているの?」
「ベ、ベスト盤」
「『ベスト盤』ていう名前のシングルなの?」
「そ、そうさ」
むちゃくちゃだが、けんちゃんの中ではそういうことになっている。木々が色づく頃、けんちゃんの頭の中のセブンイレブンでは『山』と『ベスト盤』がレジ前に陳列されている。
※本稿は、著者こだまが文学フリマ東京(2015年11月23日)で頒布したエッセイ集『塩で揉む』の一遍を、個人の特定に至らないよう加筆・修正したものです。

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Vol.8「けんちゃんのベストアルバム」


こだま
作家。私小説『夫のちんぽが入らない』(扶桑社)でデビュー。同作はNetflix・FODでドラマ化されるなど大きな反響を呼んだ。また、エッセイ集『ここは、おしまいの地』(太田出版)は第34回講談社エッセイ賞を受賞した。その他著書に『いまだ、おしまいの地』『ずっと、おしまいの地』『縁もゆかりもあったのだ』(太田出版)がある。本作『けんちゃん』が著者初の創作小説となる。











