筆者はホストマザーが運転する車に乗って、パトカーの後ろについて友達が『Child molester』の男性とホームステイする家に向かいました。
<助手席の窓に反射するライト。その場所へ無情にもわたしを運んでいくことを伝えるかのようにビュンビュン進む外の景色。家の前で無機質に、心を逆なでするようにピカピカと主張するパトカーのサイレンライト。それまで映画の中でしか見たことがなかったアメリカの警察官が無線で話す姿。うなだれたまま引きずられるように連行されパトカーに押し込まれる『Child molester』の男。女性警察官に抱きしめられるように抱えられて出てきた友人。彼女がわたしを見つけた時の目。約束を破ったわたしは責められると思ったけど彼女の目はわたしを睨みつけるでもなく脱力感で満たされていた。
自分の一言がきっかけとなって起こっている目の前の事態に、なぜか私はアメリカの力を感じた。>
アメリカでは、子供への虐待(性的虐待を含む)が疑われるケースでは、学校の教師やカウンセラーなど、すべてのスタッフに通告する義務があります。また、学校や児童相談所と警察との連携がなされており、日々の生活の中での警察の位置づけが日本よりも近く家庭内にも介入する社会です。(※)
このホストマザーのレスリーさんは、学校のスタッフではない一般人ですが、人として、加えて海外からの子供を預かる立場としても、虐待の兆しを発見したら通告すべきと考えるのが自然だったでしょうし、筆者の友達のホストマザーに対して自分自身で直接交渉するのではなく、警察に知らせたのも、アメリカでは当然の行動だといえるでしょう。
性犯罪の被害にあった子供たちに対して「不用意だ」など、責める言葉を投げつける人達を見かけます。
ですが、性犯罪にあう危険性のある場所に行かないことや、知り合いであっても加害者になる可能性のある人を避ける判断は、子供には難しいのではないでしょうか。
<16歳はまだ子供だと私は思う>と、筆者は綴ります。
<(危険を回避するための)その判断を16歳ができたかは私にはわからない。
16歳だった私は「絶対に他の人には言わないで」という友人の告白を真に受けたから。
でも、私は間違っていたから。
あの時もし私がレスリーに質問しなかったら、レスリーが警察に電話しなかったら、私の友人はどうなっていたのだろうか。
考えたくもない。>
数十人もの神父が主に男子児童に行った性的虐待をカトリック教会が組織ぐるみで隠蔽。それを報じた「ボストン・グローブ」紙の調査報道チームの闘いは、のちに映画化されアカデミー作品賞・脚本賞をW受賞した。『スポットライト 世紀のスクープ(DVD)』バップ
この経験談へのネットでの反響では、「子供への性犯罪を知った時に、このホストマザーのような大人でありたい」「『助けて』と被害者が声をあげるのにためらわなくていい社会」「日本もこういうふうになってほしい」というものが見られました。
また、当時16歳だった筆者の経験からの言葉、<16歳はまだ子供だと思う>という事を大人の皆さんに大切にしてほしいという声もありました。
今日も、少年少女が、大人からの性犯罪の対象となっており、子供は立場が弱く、大人を拒絶したり告発することができずにいます。
筆者は、<この世界が、力の弱い人が理不尽な目に合わないですむ世界になればいいな、と思った。>と文章を結んでいます。
現状で、私達ができる最も良いことはなんでしょうか?
※参考 文部科学省「海外における児童虐待防止に向けた取組の状況」 http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/seitoshidou/06060513/001/012.htm
厚生労働省「アメリカ・イギリス・北欧における児童虐待の対応について」 http://www.mhlw.go.jp/file/05-Shingikai-12601000-Seisakutoukatsukan-Sanjikanshitsu_Shakaihoshoutantou/0000060829_6.pdf
<TEXT/女子SPA!編集部>
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