「番組の“いじり”はイジメだと思ってた」46歳の元吉本芸人が90年代のお笑い業界に思うこと
お笑いコンビ・アップダウンのメンバーである竹森巧さん。若手時代は深夜番組『吉本ばかな』(日本テレビ系)で、ガレッジセール、ライセンス、シャンプーハットとユニットを組んで人気を博し、作詞作曲をした楽曲「ぬか漬けのうた」がNHK『みんなのうた』で放送されるなど、幅広い活躍をしていました。
そんな彼が現在、ライフワークとして取り組んでいるのが「戦争の歴史を伝える活動」です。2024年11月19日には、著書『桜の下で君と 特攻隊の真実を伝えるお笑い芸人の物語』(東京ニュース通信社)を発売し、自身の制作した二人芝居『桜の下で君と』が生まれるまでの過程や芸人としての人生を綴っています。
かつては吉本興業に所属しM-1グランプリ 準決勝に4回出場するなど、テレビ業界でも高い評価を受けていたアップダウン。そんな彼らがなぜ活動の場を移したのか。前編の今回は自身の活動の原点でもある「お笑い」や「芸人」に対する考えを聞かせてもらいました。
――本書の中で本来は「芸人になりたくなかった」と語られていましたね。では、どのように芸人人生がスタートしたのでしょうか?
「高校の同級生だった相方の阿部浩貴から誘われたことがきっかけです。それと同時に会社経営者である父親への反発の気持ちが強かったんです。でも今になって思うのは、僕にとって父親が“社会”そのもので、それに反発していたんだと気付いたんですよ。僕は父親を通して社会を見ていたんですね。
まあ、今では嫌と思ってもしょうがないことなので、どうするかなって感じですけど(笑)。その時に持っていた違和感は、現在の活動にバリバリ影響を与えていると思います」
――「お笑いをやりたい、やりたい!」みたいな高校生だったわけではないんですね。
「はい。会社を継がないという意思はあったものの卒業後の進路は考えてなくて、オーディションを受けながらそのまま吉本に所属して芸人になっちゃいました。進学率100%の高校だったのに周りも僕らに感化されて、やりたいことやるようになっちゃって。僕らのせいでだいぶ進学率を下げちゃったんですよ(苦笑)。でも、東京で行列のできるラーメン屋をやってる奴もいたり、結果みんなにとって良かったのかもしれないです」
――1998年に『吉本ばかな』(日本テレビ)がスタートした時は、まだデビューして2年目くらい。当時は出身地である北海道在住だったそうですね。
「東京は怖いという気持ちが強かったから住みたくなくて、ずっと通いで番組に出ていたんです。そもそもあの番組も、事務所の先輩だったタカアンドトシさんのバーターみたいな感じでオーディションを受けたら、僕たちが受かっちゃったんですよ。正直、やっちゃったなー(汗)って思ってました」
――当時は番組内でもかなりのいじられ役だったとか。
「あれは当時の僕の中では“いじられ”ではなくて、完全に苛められていると感じていました。辞めたいって何度本気で思ったことか。でも、ガレッジセールのゴリさんが気にかけてくれていて。ご飯に誘われるなか『頑張れ』って言われながら続けていたんです」

「本当はなりたくなかった」それでも芸人になった理由
