「死にたいと口にする人は、どうせ死なない」というのは間違い
「死にたい」と口にする人は、嘘などついていない。彼らの心の中にはたしかに「死にたい」があって、それをぽろりとこぼしているだけだ。そして、それが心から溢(あふ)れる時、その大きさや、実行できるかなんて、さほど重要ではない。
心の中にある「死にたい」が漏れ出している時点で、やっぱりそれは、SOSだと思うからだ。
自殺への激しい欲求は、10分間ぐらいの短い時間がピークだという説を、聞いたことある(出典はわからない)。人が実際に死のうとするとき、すなわち首にロープをかけてしまう瞬間は、練りに練って冷静にというよりは、むしろ、衝動的である場合のほうが多い。
毎日、苦しかったのは本当だろうし、「いつか死のう」と計画もしていたかもしれないけれど、それでもその人たちにも楽しい日はあって、ラッキーな日常がある。そうやって1日、1日と「死ねなかった日」が続いていくのだ。

だけど、それでもどこかのタイミングで、「今、死のう」という魔の時間がおとずれてしまう。ちいさな嫌なことが重なって、考えるのをやめたくなって、
誰かに「助けて」と言えなくなったときだ。
「どうせ伝わらないだろうな」と思って、伝えることをやめてしまう。「私らしくないからな」と、言いたい弱音を飲み込み、そして、一人でロープに手をかける。誰かが死んだとき、人々は「どうして伝えてくれなかったのか」と苦しむ。もしも、その日に横にいられたら止められたのにと、どうしようもない後悔すらする。
だけど、その人々の中には普段から「死にたいなんて、簡単に言うな」という人たちも混じっているのではないだろうか。
「生きたくても生きられない人がいるのだから」
「両親が産んでくれた大切な命なのだから」
だから、「死にたい」なんて不謹慎なこと、簡単には言うなって。私はその人たちにとっての「簡単」がどの程度か知らないけれど、その言葉たちこそが死にたい人を“魔の10分(?)”に追いやり、ロープに手をかけさせるのではないかと思っている。
いいかい、「死にたい」は、SOSだ。もしもその後に実行に移さずに美味しそうにアイスを食べていたのだとしても、それは「死にたい」と言えたから、吐き出せたから助かっただけで、もしもその言葉を口に出せていなかったら、彼女、彼らは死んでいたかもしれない。
「死にたい」。誰もが口にして良いし、思ったのなら口にすべきだ。その深刻度は人によって違うかもしれないけれど、誰もに「死にたい」と伝えられる相手を作ることこそが、自殺を食い止める唯一の手段ではないかと思う。
死んでしまってから「伝えてほしかった」と嘆くのではなく、死んでしまう前に、伝えられる環境を作ろう。そしてひとつ、私の答えを置いておく。
私があの時死にたかったのは「死にたい」と言える相手がいないと感じてしまったからで、そしてあの時、私がもう1日生きることを決めたのは、それが勘違いだと思える出来事があったからだ。