米津玄師は失速?「くだらない」を連発する31歳の壁
彼の思う「スランプ」と、聞き手の飽きが一致するかはわかりません。いずれにせよ、総花的なサウンドプロダクションやビジュアルイメージの変化では、音楽の幹そのものを更新することはできない。そのあたりは、ファンではないふつうの聞き手のほうが敏感に感じ取るのだと思います。
そして、「くだらない」を連発する「POP SONG」の歌詞。これも、深刻さのマンネリが自家中毒を起こした症例と言えるでしょう。繰り返されるセンチメンタルな短調と果てしなく内面を探る言葉が癒着してしまって、剥がれなくなった感があります。
正直、彼の歌詞を読んでも、明確に何を言っているかはわかりません。ただし、心のうちの繊細な問題についての訴えだということは伝わってくる。
<誰かの居場所を奪い生きるくらいならばもう
あたしは石ころにでもなれたらいいな>(「アイネクライネ」)
<歪んで傷だらけの春 麻酔も打たずに歩いた
体の奥底で響く 生き足りないと強く>(「馬と鹿」)
どこかで罪の意識を抱えながら、その負荷を跳ね返す反発力を生命の躍動とする感覚ですね。ところが、これが「POP SONG」においては手に負えなくなっている。
<どうしちゃったの皆 そんな面で見んな まともじゃないよあなた方>
<異常にくだらねえよ何もかも>
自己の内面という器の限界を露呈しているような危うさで、これを歌詞として許容していいものか迷ってしまうほどです。
この歌詞は、一体何を示しているのでしょうか?「POP SONG」リリースに際して、米津はこう語っていました。
<みんな生きることに必死すぎて、その反対にあるくだらない遊びのようなものを遠ざけようとするじゃないですか。でも、遠ざけようとすればするほど、翻って生きる意味すらわからなくなっていく。果たしてどれくらいの人間がそのことを意識しながら生きているだろうかということを考えたりします。>(『音楽ナタリー』2022年2月11日配信 取材・文 柴那典)
細かいことはさておき、まだ30代前半の若者が、あたかも解答であるかのように人生や他人の生き方について語り、そうした考えを臆面もなく作品に反映させている事態に、驚きを禁じえません。もっとも、これは米津玄師に限った現象ではないのですが。
問題は彼にそうした特権的な視点を与えてしまったものは何なのか、という点です。