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「中庭で新聞が舞う朝に」ーー鈴木涼美の連載小説vol.5

 入学式の前に担任と話をしにくる親というのは実はかなり多いのです。子どもの身体が弱いとか、アレルギーがあるとか、幼稚園で友人を作り損ねていたから不安だとか、入学前にどれくらいひらがなや数字を書けるようにしておけばいいかとか、親の心配事を相談しにくる。そのために設定してある入学前の説明会や見学会の時に質問をしてくる親もいますが、おそらく入学が迫ってくると心配事は大きくなるのでしょう。小学一年生というのは、かけっこのようにいきなり走り出したりはしません。気が弱そうだとか、文字を一つも書けないとか、静かにしているのが苦手だとか、受験塾でたくさんの事を詰め込んできたとか、生徒一人一人の様子をみる期間が、私たちにも必要だからです。入学直前の心配事を埋めるのはこうやって特別に作った親と教員との時間ではなく、入学して夏休みを迎えるくらいまでの、とても長い生徒達の時間なのです。  三年前のことを思い出し、心配事の種類を頭の中に並べて予想を立てていると、サトウさんの母親が予定時間ちょうどに学校の受付にやってきました。父母会の日に会う生徒の母親の中であまり見られない色のついた服で、通常の入学前の母親達のような恐縮した様子があまり見えないことは意外でしたが、オープンスペース、と呼んでいる、廊下のはじに作っている教室ではない部屋に通して話を聞き始めると、その印象は薄れていきました。 「先生、申し訳無いのですが入学式の翌々日は学校を休むことになりそうです。本当はうちも入学に合わせて、余裕を持って引越しを済ませる予定だったんですが、家の改装が予想以上に、予想以上なんてもんじゃないんです、本当に、家を一軒新しく作るって言った方がいいくらい。一ヶ月は二階だけで住まなきゃいけないんですよ。台所は丸ごと作り変えて、リビングの隣に子どもの部屋を作って、夫婦の寝室なんてまだどうするか決めてもいない状態です。二階で過ごしている間はキッチンがありませんからカセットコンロで簡単な料理だけしようと思ってるんですけど。ああでも洗濯、そう洗濯がいつからできるかわからなくて、制服の、その、ジャンパースカートやブラウスじゃなくて、もっと細かいもの、例えば靴下とかハンカチとか、そういったものも指定のものがありましたよね? それってどれくらい厳密に指定なんでしょうか。式典はもちろん指定のものを使うんでしょうけど、六年生になるまで指定のハンカチしか使わないんですか?」  早口、というのとは少しちがう、こちらの顔色はちゃんと見ながら、勢いよく喋る人だと思いました。語尾がはっきりしている。そういう人は生き方には自信がある。  自分に強い劣等感がある親というのも男女ともにもちろんいます。美貌によって大変な名家に嫁いでしまったけれど、その家の人に比べて教養や学歴がない、受験に失敗したせいで出世競争で不利になった、周囲に比べてお金がない、語学が全くできない、田舎出身である。劣等感の持ち方は人それぞれですが、自分の劣等感との付き合い方を確立せずに子どもを生んでしまった夫婦のもとでは、苦労する子が多いのも事実です。特に受験や成績によるクラス分けなど、結果が分かれる事案に関しては、親の劣等感を克服するために、参加したつもりのない戦いを強いられる子どもがたくさんいて、戦い方を間違えて、親との間に大きな溝を作ってしまうきっかけにもなるからです。  かといって自信に満ち溢れた両親のもとに生まれた子どもが、楽をできるわけじゃない。子育ては変数が多すぎるので、多くの子どもが、親がそれまで持っていた確固とした自信を失う契機を作る、という役目を追っていることになります。自分によって、親の自信が崩れていく様を、間近で見ること。それは親が殺される様子をみる、しかもそのきっかけを作ったのは自分である、ということです。それがそんな子ども達に課せられた指名なのです。  そしてサトウさん、今週小学校に入学する六歳の少女は、まだその現場に居合わせていない。それが訪れるのは、私が彼女の担任を務める三年間の間かもしれないし、次の担任がみる三年間かもしれない。もっと遅いかもしれない。そう思うと、少しだけ吸う空気が重くなった気がしました。 「引越しについては、それぞれご家庭の事情があるでしょうから。欠席については改めて届けを書いていただくことになります。そうですね、入学直後は気を張っていて疲れるし、体調を崩す児童も多いものですから、なるべくゆっくりさせてあげてください、二階で過ごしていても。ハンカチと靴下は六年間指定のものを使うので、少し多めに購入しておいてもいいと思います。春休みが明ければ、購買部で買えます」  ハンカチの説明をしている間に、目の前にいる、おそらく私なんかよりずっと良い大学を出てたくさんの本を読んだのであろう母親の顔が、少し怪訝な様子で曇ったことには気づきましたが、そこは気にせずに言い切りました。特に幼い子どもに話しかける機会の多い私たちは、語尾をはっきり言い切る訓練を受けています。子どもは、あやふやな語尾に隠される意味を想像できるほど、言葉や会話について成熟していないし、かといって人の心を嗅ぎとる力は大人よりずっとありますから、語尾がもつれればすぐに不快感を顔に出します。
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