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「謎解きはタグを切った後で」ーー鈴木涼美の連載小説vol.6

「AV女優」の社会学 なぜ彼女たちは自らを饒舌に語るのか』、『身体を売ったらサヨウナラ 夜のオネエサンの愛と幸福論』、『おじさんメモリアル』などの著作で知られる鈴木涼美による初の小説『箱入り娘の憂鬱』第6回! 鈴木涼美『箱入り娘の憂鬱』

第6回「謎解きはタグを切った後で」

 大人数の子どもにクラスの箱の中にとどまってもらう、というのは当然、とても骨の折れる作業で、こちらが必ずしも正しいと思うことができるとは限りません。自主性、個性、多様性、自由、自立、など、どれもとても正しい言葉であって、私自身その重要性を疑ったことなどありませんが、いくつもの言葉を犠牲にして動かなくてはいけないのです。小学校1年生で学ぶべき事柄を、1か月や5年間で学ぶことが許されるのであれば別ですが。  購買部にある指定の上履きからハンカチ、鉛筆やブックカバーまで揃えなくてはいけない我が校の規則は、外部にいる一部の識者やごく一部の父兄からは、多様性を無視して、生徒の個性を封じるものだとの批判があるのは知っています。彼らは何も分かっていないのです。そもそも自由な髪型にしたい、キャラクターのついたノートを使いたい、なんていうのは個性とも自主性とも何の関係もない、ただの欲望なのです。オリジナリティなんていうものがあるとしたら、それは個性や変哲のない歴史をすべて学び直し、その隙間に針を通すようにしてしか生まれない。もし子どもに個性的であってほしいならば、徹底的な没個性を教えなくては、個性とは何かを勘違いしただけの子どもが育つでしょう。  私や、場合によっては学校創設者でもあるシスターであっても、厳しい校則を守ることだけが素晴らしいと感じているわけではありません。どこかでそれを突破する力を身につけてほしいと心から思っています。こちらを黙らせる生徒に出会いたいと思っています。白いハンカチや緑色の鉛筆を持たずに登校し、誰にも文句を言われない人間になって欲しいと思っています。ただ、頭で考えれば非常に非合理的であるようなそれらに、最初から例外を認めてしまえばその歪みが全体に波及して、箱が壊れてしまうことがあるのです。  サトウさんたちが入学してくる前の3年間、私は今と同じように、ひとつのクラスの子どもたちを、3年生を終えるまで担任として受け持っていました。クラスの中には、米国人とのハーフの女子がひとりいました。カソリックの修道院が経営母体である我が校には、キリスト教の西洋人の父兄がいることは珍しいことではありません。学年にひとりか2人いる、多少の文化的背景に違いのある児童は、学年で最も勤続年数の長い教師のクラスに入るのが通例となっています。そして私もここ数年、ハーフの子どもがいるクラスを連続して受け持っているわけです。  先日四年生になったその女子は、父親が金融関係の仕事をしており、一年の半分近くは米国で仕事をしているため、多くを日本人の母親と過ごしていました。彼女は母親の影響もあり、クラシックバレエを習っていたのですが、発表会などで髪をお団子にするため、どうしても髪を長く伸ばしたいという風に私に言ってきました。 
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肩に髪がかかってはいけないルール
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