土岡さんの父親は戦後すぐ生まれの団塊世代。地元静岡の企業に40年勤め、その後関連企業に出向して、それなりの地位に就いた。
「
父は文字通り“仕事命”の男でした。僕は18歳で東京の私大に進学させてもらいましたが、それまでの18年間で、平日に父親と夕食をとった記憶はほとんどありません。毎朝7時に家を出て、帰りは早くて夜9時。母親によれば、週末にも家に仕事を持ち帰っていたそうです」
典型的な昭和の父親だった、と土岡さんは語る。

「
4つ離れた姉とともに、僕たちきょうだいは小学生の頃から父の規律にがんじがらめでした。テレビは1日1時間。ファミコンはテレビの時間にカウントされるので、30分ファミコンしたらテレビは30分しか見られない。学校の宿題以外に、毎日3教科以上の問題集を2ページずつやること。テストの点数は厳しく管理されていましたし、成績が下がれば説教され、仏壇の前で反省させられる。風呂掃除、トイレ掃除、食後の食器洗い、庭の水やりなどは、曜日単位できっちり姉と分担が決まっていました」
父親は土岡さんの友達も
“選別”した。
「町内にいる、ちょっと品行がよくない上級生との付き合いは禁じられました。彼らが下級生を率いて自転車で遠出する時も――と言っても片道30分もかからない大きめの公園や、ちょっとした繁華街ですが――
『あそこの息子は不良だから、ついて行くな』とはっきり言われましたね。みんなと一緒に遊べなくて、何度も悔しい思いをしました」
昭和の家族らしく、彼岸の墓参り、初詣、年始の親族回りなど家族行事の出席もマスト。部活があろうが、受験時期だろうが、反抗期だろうが、問答無用で連れて行かれた。
「毎年夏休みには必ず2泊程度の家族旅行が、父のプロデュースで計画されました。父が車を運転して、会社の保養所がある山や海に僕らを連れて行くんです」
高校生くらいまでの土岡さんは、このような家族行事を「うざい」と思っていたそうだ。
「
だけど、僕自身が30代半ばで管理職になった時、ようやく父の偉大さに気づいたんです。若い頃はがむしゃらに仕事をすればそれでよかったけど、管理職は自分だけ頑張ってもダメ。チーム全体を常にケアしていなければなりません。責任の重い仕事も増える。20代とは比べ物にならないくらい会社に人生のリソースを割かなければ、とてもやっていけないんです。朝目覚めてから眠るまで、頭は常に“仕事をどううまく回すか”を考えている。どうしたって家庭生活はおざなりになります。
僕が小学生くらいの時の父も30代半。あとで母に聞いたら、やはり管理職になりたてで、父の会社員人生の中でも一番忙しい時期だったそうです。にもかかわらず時間をやり繰りして、家族サービスを惜しまなかった。
父は『家族』という単位にものすごくこだわっていましたし、大事にしていました」
離婚によって「家族」を手に入れられなかった土岡さんだけに、その言葉には重みがある。土岡さんが反抗期真っ盛りの頃、家族の食卓でこんなことがあったそうだ。