
未山は、基本的に歩く人である。表情ひとつ変えずにずんずん歩く。ゆるやかにカーブする坂道を上ってきた彼の前に、一頭の乳牛が立ちふさがる。エキセントリックなシチュエーションだが、未山は動じない。「行こう」と静かに言って牛をあやしながら、連れていこうとする。
この場面は、固定したカメラによる長回し(カメラを回し続ける長いショットのこと)。同じ点景を見ているうちに、あれ、何か見たことあるなと感じてくる。ある絵画の風景である。フランスの画家コローの「森辺で牛を飼う農夫」で、森の中で女性と牛が見つめ合う空気感に似ている。おそらくこの絵画の再現ではないけど、さっき横顔にシャッターが切られたことといい、フレーム(画面)の中の坂口が、完璧にそこに存在する感動がある。
ただそこにいたり、座ったり、歩いたりするだけで、ぐんぐん迫ってくる感じ。当たり前かもしれないが、そういう力のある俳優は意外とすくない。特殊な力を持つ未山を不思議な気配で演じる坂口健太郎は、俳優としてすごい域に入りつつあるのかもしれない。

放牧中に脱走した牛を知り合いの酪農場に送り届けた次の場面では、また横顔。しかも今度は朝の寝顔。朝日が部屋中にまろやかに行き届いていて、顎のラインや喉仏からふさふさ生えたうぶ毛がまぶしい。
未山の寝顔を捉えたカメラがゆっくりズームバックする。ここぞというタイミングで薄目を開け、何となく部屋の空気に合わせて呼吸する。これが息を呑む美しさなもんだから、これで映画がもうクライマックスでいいとすら思った。
いや、待てよ。そのあともまだとてつもない場面が続く。テレビでアニメ番組を見る美々(磯村アメリ)の隣に座り(あぐらがまたいい) 、「おはよう」とロートーンで言う。台所のシンクでキュウリ、赤黄のパプリカとトマトを洗う手元。坂口に洗われると、こんなに野菜の原色が鮮やかに感じるものか。
食卓で美々が差し出したパンを大口でハムっとする横顔が、画面上手からヌッと飛び出す瞬間は、衝撃映像を見ているときの胸のザワザワ感を覚える。