――ここまで話してきて、お二人にとって人生におけるセックスの意味とは何だと思いますか?
湯山:セックスは今、誰もが手の届くところにありながら、それを堪能できる人間はごくわずかという贅沢品になっちゃった。だけど、この先さらに混迷・殺伐として生きるのが困難になっていく世の中で、個人を救う手段としてますます有効になっていくと思う。手間をかけて努力してでも、飼い馴らしておいたほうがいいよ。
森林:その形は、
ロマンチックラブや恋愛結婚にこだわる必要はもはやないですよね?
湯山:うん、そこにこだわる必要はないし、もっと言えば性器の挿入にこだわる必要もない。ただイチャイチャして抱き合うだけでもいいんですよ。
森林:僕にとってセックスは、やはり
“孤独の克服”ですね。人間はどれだけ他人とわかりあおうとしてもわかりあえない孤独な存在ですが、セックスしている瞬間だけは、まやかしでも孤独を克服できた気になって、そしてまた孤独に戻っていく。
でもその瞬間があるだけで、
自分という存在を「生きてていいんだ」と許せたり、自分の人生を受け止める力になってくれたりすると思うんです。だから、最初からセックスを要らないやとあきらめちゃうんじゃなくて、選択肢として持っていてほしいですね。
湯山:日本人って、本当の意味で孤独を知らないんだと思う。キリスト教圏やイスラム教圏の人たちは、神と私との“一対一の契約”という関係がベースにある。孤独は嫌だけど、引き受けなければならないもの。そこから自立と個人主義という考えが生まれたんだよね。
そして、
孤独だからこそ、なんとしてでも人とつながりたいというエネルギーが生まれる。それがセックスのモチベーションにもなってるんじゃないかな。
森林:日本でも仏教にそういう力はなかったんですかね?
湯山:日本は仏教ではなくて、“日本教”という独自の宗教だと、イザヤ・ベンダサン作『
日本人とユダヤ人』に論じられていましたよね。ゆるくつながった共同体の中で、同じ言葉を話し、その時々で変化する“空気”の強制力が強い。
つまり、関係というものがすべてで、個というものがない。だから、孤独はかわいそうでいけないことだと思っていて、自分が孤独だと認めたがらないんですよ。みんなもっと、言葉の通じない海外に行ったり、山登りして自然と向き合ったりして、
孤独を引き受ける訓練をしたほうがいい。そうすればセックスしたくなるから(笑)。
森林:“世界を低く見積もる”というのも、“孤独を引き受ける”ってことと似ているかもしれませんね。
湯山:うん、似てる。とにかく、世の中や相手にまかせて自分を救ってもらおう、変えてもらおうとする甘えたお客様根性をやめて、自分の足で立つことが大切。セックスは、そんな孤独な他人同士をつなげてくれるツールとして使いこなせば、とても豊かで楽しいものだと思いますよ。
<TEXT/福田フクスケ>