宮沢りえの“どん底”からの復活を支えた超大物たち
3月16日に発表された、宮沢りえ(44)とV6の森田剛(39)との結婚は世間をあっと驚かせました。「意外」という反応も少なくなかったようです。
8歳の愛娘がいる宮沢は再婚、森田は初婚。ジャニーズタレントの中でも、年上のシングルマザーとの結婚は前代未聞ですが、芸能界をあげての祝福ムードです。
「それも女優・宮沢りえの演技力が高く評価されているからでしょう。同世代の中で、本格女優としてピカイチの存在です」と、芸能リポーターの川内天子さんは称賛します。
20代では、公私ともにどん底を味わって、もう引退かと思われた宮沢りえ。強烈すぎるステージママ「りえママ」(故・宮沢光子さん)との確執もありました。
なぜ、宮沢りえはアラサー以降に大復活をとげられたのでしょうか?
本人の才能と努力はもちろんですが、その裏には、演劇界や歌舞伎界の大物たちのバックアップがあったようなのです。
1993年、人気絶頂だった宮沢りえは、貴花田(現・貴乃花)との婚約破棄で苦難の時代に入ります。
拒食症が噂され、’94年には泥酔して手首を切る自殺未遂騒動、中村勘三郎(故人)との不倫報道、舞台の降板も相次ぎます。’96年、ついにロサンゼルスに移って芸能活動を休止し、10ケ月も帰国しませんでした。
「再起不能と言われましたが、マネージャーだった母親と離れて、ロスで自分を見つめ直したことが転機に繋がったようです」(前述・川内さん)
“りえママ”の言いなりに、これまで多くの著名人と交流を持ってきた宮沢りえ。その母親と別れ、独り立ちをするためには、女優としての基礎をみっちりと指導してくれる人が必要だったのです。
その一人が、歌舞伎役者で世界的なアーティスト、坂東玉三郎でした。
玉三郎と宮沢りえの対談(『週刊プレーボーイ』’95年10月3日号)で、玉三郎はこう話しています。
<樹木希林さんとか鳳蘭(おおとり・らん)さんとか、『あの子に、あなた、とにかく会ってくれない』っていう人がたくさんいたんです。
(玉三郎が「脱いじゃったりしてる人を僕が勧誘する必要はない」と言うと)
「いや、脱ぐだけじゃないのよ。ものすごくいいものを持っているから、あなたが導いたらきっと凄くバァッとなると思うわよ」って。
(中略)本当に脈のある人だった>
94年には玉三郎演出の舞台『海神別荘』に宮沢りえが起用され、舞台『天守物語』と同名映画(’95年)で2人は共演。静養先のロサンゼルスから10ケ月ぶりに帰国した’96年も、玉三郎が『天守物語』再演で復帰への道を用意したのです。
当時スキャンダルしか話題のなかった宮沢りえを、世界の玉三郎がここまで大事にすることに、世間も驚いたものです。
ちなみに、玉三郎に宮沢りえを推薦した宝塚のスター鳳蘭は舞台『ジプシー』(’91年)で共演した宮沢を高く評価していたし、樹木希林は夫・内田裕也と宮沢との共演映画『エロティックな関係』(’92年)で交流があったのでしょう。
ともあれ、玉三郎の支えによって、宮沢りえは女優として開眼。舞台や映画の仕事が舞い込み、野田秀樹や蜷川幸雄の舞台、山田洋二監督の映画などで、女優として大輪の花を咲かせていったのです。
20代前半にして「再起不能」と言われ…
樹木希林、鳳蘭らの推薦で、玉三郎が強力バックアップ
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