「中庭で新聞が舞う朝に」ーー鈴木涼美の連載小説vol.5
『「AV女優」の社会学 なぜ彼女たちは自らを饒舌に語るのか』、『身体を売ったらサヨウナラ 夜のオネエサンの愛と幸福論』、『おじさんメモリアル』などの著作で知られる鈴木涼美による初の小説『箱入り娘の憂鬱』第5回!
―鈴木涼美『箱入り娘の憂鬱』―
入学直後に家の中がバタバタしている、或いは親が不在にしがちになる、場合によっては学校を休まなくてはいけないというような事態を、なるべく避けてあげたほうが子ども達にとってはいいのです。四月は引越しや転勤の時期でもありますから、よくあることではあります。ただ、小学校入学というのは六歳児にとっては大人にとっての入社や転職とは意味合いが違いますし、赤ん坊としてこの世に生まれ落ちたあの瞬間に次いで最も大きな船出です。その際に細い糸で自分をもともといた世界につなぎとめる家というのが流動的だと、子どもは寄るすべがありません。昨日まで生きた生と入学によって始まる生に連続性がなくなってしまうのです。
教員になって二十八年も経てば、生徒の幸福も不幸せもいくつも間近で見ることがありました。子どもの幸せに居合わせることができるのはこの仕事の醍醐味ですが、残念ながらそれが教員によって生み出されることはありません。幸福は気分です。どの子にあっても、運や努力に導かれて、自分で気分を生み出すしかないのです。気分の育て方や、気分を変える方法を教えるのが学校であるなら、気分を育む土壌を作るのが家だと、私は思っています。
今度四年生に上がる生徒達の担任を終えたので、今年の春休みは、遠くに出かけることはせずに、ほとんど毎日のように学校にきていました。一年生から三年生までクラス替えをせずに、一人の担任が受け持つ我が校では、数年かけて適性をみた後、高学年ばかりを受け持つ教員と、低学年ばかりを受け持つ教員の二手に分かれます。私立の教員の得なところは、慣れ親しんだ学校の仕組みから、転勤によって定期的に学び直さなくていいことでしょうか。当然、反対側から見れば、その仕組みからはずっと解放されないということですが。
つまり、私たちは三年たって子ども達の学年が上がると、再び三年前と同じ年齢の子どもを新しく担当する。これが延々と繰り返されるわけです。ですから、受け持っている生徒の学年が上がるだけという年と、三年間一緒に過ごした生徒達を手放し、全く知らない、新しい生徒を迎える年では、四月の意味が大きく異なります。先日までみていた生徒の三つ年下の子ども達を迎えるわけですから、使う言葉を変えることから意識しなくてはいけません。そして、愛着のある生徒達に比べて、新しく入った生徒達はまるっきり赤の他人のように思えるのです。三年かけて、その子どもたちと私とで、また愛着を一から作り直すわけです。
春休みももうあと三日で終わる、という時期に、学校宛に、私に時間を作って欲しい、という電話がありました。いずれにせよ夕方まで学校で作業をする予定だった私は、サトウさん、という新入生の母親からのその申し入れに午後三時を指定して受けました。

第5回「中庭で新聞が舞う朝に」
